母のサポートは、だいたいできてしまう。でも続けていると、静かに消耗している。できるからこそ、断る理由が見当たらない。そのあいだのどこかで、ずっと揺れている。
「終わったよ」と言うと、すぐ次が来る
病院の付き添いを終えて、帰り道に家の蛍光灯が切れたから、買いたい、と言ってくる。どんな種類の蛍光灯かわからないのに。
家に帰ってから、蛍光灯の種類を確かめ、近くのドラッグストアへ買いに行く。戻って蛍光灯を取り替えても、電気はつかない。また、グロー球を買いに行き、それを付け替えても電気はつかず……。もう、取り替えるパーツはないので、もう一度外して、また装着。すると、やっと電気がついた。
今度は調理をして欲しそうだったけど、母の部屋もそろそろ衣替えの時期だったので、片付けを提案してみた。でも、却下。母の頭の中には、母自身が手伝って欲しいこと、私への依頼がいくつも並んでいるらしい。母の中では計画があるのだろうが、私には一つ終わると次が出てきて、それが終わるとまた次が、と感じてしまう。
そうして母の依頼はできてしまう、のだ。だいたい。しかし、母の希望通りにしてあげたいが、だんだん疲れる。
「無理すればできる」より、ずっと厄介なこと
仕事で頼まれすぎたとき、「無理すればできる」と感じることがある。でも母へのサポートは、少し違う。無理というほどではない。でも、続けていると、静かに消耗している。
できるから、断る理由が見当たらない。
「しんどい」と言えるほど、しんどくない。でも「余裕がある」とも言えない。そのあいだのどこかに、私はいつもいる。
断ったとしても、罪悪感が残る。「これくらいできたんじゃないか」という気持ちが、あとからじわじわ来る。
してあげたい気持ちは、本物だった
断れないのは、弱さからではないと思っている。
してあげた時の喜びが、しんどさを上回る。できた時の達成感が、疲れより先に来る。だからやってしまう。やれてしまう。それが、ずっと私のやり方だった。
でも最近、そのやり方では体が持たないと感じる場面が増えてきた。
軽くできると思っていたことが、できない。遭遇する出来事の重さが、以前と違う。若い頃は勢いで乗り越えられたことが、今は勢いだけでは届かない。
それは弱くなったのではなく、たぶん、出来事のレベルが変わってきたのだと思う。
自分の体のこと。家族の体のこと。人生の後半戦に入って、ひとつひとつが、以前より少し重い。
だから今、「頑張る」ではなく「整える」ということを考えている。関わる人、付き合う範囲、自分の体調。ネガティブなことにとらわれるのではなく、自分の環境を丁寧に育てていくこと。それが、長く関わり続けるための、新しいやり方なのかもしれない。
部屋が、正直だった
気づいたのは、部屋の状態だった。
母のサポートに時間を使った日、自分の家が少しずつ後回しになっていく。床の埃、片付けられていないもの。いろんなことが気になる。でも手が回らない。
部屋は、私が何にエネルギーを使ったかを、正直に見せてくれる。
「大丈夫」と思っていても、部屋が「大丈夫じゃない」と言っている気がした。
断ることは、見捨てることではない
最近サポートのある日は、できるだけ依頼を一つに絞るようにしている。
簡単ではない。次々と出てくる頼み事を前に、「今日はここまでにします」と言うのは、慣れない。「冷たいかな」と思う自分もいる。
でも、断ることは、見捨てることではないと、少しずつ思えるようになってきた。
全部引き受けて、消耗して、余裕をなくした状態で母のそばにいることが、本当にいいことなのか。余裕のない私が、どれだけ母と丁寧に関われるのか。
「今日はここまで」は、逃げではなく、続けるための選択だと思いたい。
とりあえずの境界線
まだうまくできているとは言えない。
罪悪感は消えないし、部屋の状態も正直気になる。「もう一つくらい」と思う日もある。
それでも、依頼を一つに絞った日の方が、帰り道の足取りが少し軽い。自分の時間に戻れる感覚がある。
お互いのdignityを守るということは、相手の要求を全部叶えることではないのかもしれない。
自分が消耗しないでいられること。それが、長く関わり続けるための、私なりの境界線。
Keep your dignity. Keep your boundaries.